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学習調整能力を鍛えているか

“手間を惜しむための手間”を惜しまないカリス氏は「ノートは取らない」し「英単語は書かない」らしい。

たしかに脳の動きが高速になってくると、手で書いている時間のロスを感じる。大学教授は脳の回転が速すぎて書くのが追いつかないから字が汚いんだ、という笑い話もあるくらいだ。

これは丁寧な板書で授業するより、要所だけなぐり書きしたり、パワポで表示したりするほうが、生徒の脳を止めずに学習を進められるというメリットに似ている。

音声メインのSNSが盛り上がってきているのも、「目と耳とを別のものごとの処理に当てたい」という欲ばりからではないか。

時代の流れは速くなり、情報は飽和を通りこして溢れかえっている。

なるだけ多くの情報を、少しでも効率よく吸収しようとすると、それを媒介する「書く」「1倍速の民放を見る」などの動作は、避けられるようになっているのかもしれない。


大学の黒板をスマホで撮る学生。

「最初からパワポ資料ください」という生徒。

ZOOM講義と同時進行で別の本を1冊読み切る受講生。

1倍速の授業を聞くくらいなら仮病で欠席して自宅で勉強する受験生。


もしこれらがただの手抜きではなく結果にコミットしているのであれば、黒板の前でチョーク&トークしている我々の存在価値はもうなくなりかけているのかもしれない。

そう言う私自身、コロナ禍で授業配信の話題が出たとき「市内で一番優秀な教員1人が配信すればいい」と管理職に言ったものだ。

個別最適化の行きつく先は、一斉「ではない」授業だ。

勉強を教えるのではなく勉強「法」を教える必要がある。

学習調整能力を評価するのであれば、学習調整能力を鍛えていなければならない。

観点3(態度)にAがつかないのは、我々が学習調整能力を育てられなかったからではないのか。


絶対評価が導入されて以来、気づく人は気づいていたと思うが、生徒を評価しているようで実は評価されているのは教員自身の指導力だ。全員が十分な学力を身につけたなら、全員にオールAの5をつけたっていいのだから。


ところで、いくら粘り強く努力しても結果が出ないと学習調整能力が発揮されたとみなせない(観点3にAがつけられない)のであれば、「時間いっぱい掃除しましょう」はどうだろうか。

時間いっぱい掃除したところで、きれいになっていなければB評価ということになる。実際、世の中では短い時間でいい仕事をした人間の方が評価される。「横並び」や「時間をかけること」がよしとされているのは学校の中だけかもしれない。それは子どもたちにとって不幸なことではないだろうか。


教員の人権を取り戻すためにも働き方改革は必須だが、いい仕事をしなくていいということにはならない。

教員にも『グロース(Growth)マインドセット』が必要だ。

チョークを手に一方的に話し続ける教員から、自学を支援するファシリテータに変化していかなければならない。

それは教員という職種の終焉だろうか。

それとも真に教育者と呼ばれる新時代の夜明けだろうか。

自己調整によって未来を変えていけるのであれば、後者たらんと粘り強く挑戦していきたいと私は思う。



文責:山田賢治

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